何も心配する必要はない

昨日は日曜日だが、いつもと変わらない、というか、コロナ禍になったら、誰でも同じだろう。土日と寒い雨が降って、雪にはならなかったが、土日の午後はスポーツジムに行くが、午前は自分の仕事の時間に取っている。ジムでは、ランニングマシーンで30分走るが、昨日は壁の側のマシーンで、外の寒い雨模様が見えて、部屋の温かさと対比的で、自分も汗を流し、隣の部屋では、インストラクター付きの激しいボクシングのようで、トレーニング用の音楽付きで、大勢の人達が身体を動かしている。こんな寒い日は、外でジョギングというわけにはいかず、スポーツジムが有難く別世界である。しかも、ちょうど相撲が千秋楽らしく、幕下か幕内の取り組みを見ることもなく見ていると、自分の仕事のことが頭に浮かんでくる。あのメールで相手は不安に思わないかなど、気になる仕事もあれば、あのデータは、どこかおかしいので、こうしようかなどの研究上の処理も浮かんできたり、やっぱり駄目か、あれは自分の力不足かと嘆いてみたり、走っていても、頭は休んでいないようで、雑念が浮かんでくる。禅の修行とは何だろう、無になることか、と思っても、凡人にはできない、凡人だからいろいろな思いに捕らわれるのだろう、と思えば、雑念のまま仕事をするしかないだろう、という平凡な考えにいたって、ランニングを終えて、最後はプールに行って泳ぐのが、自分の決めているコースである。2階のプールに行く時も、今日は止めておこうか、とか、早く帰って、あの仕事を片付けようかとか、どうして人はこんなにも雑念が多いのだろうか、と思うが、プールで最初の蹴りで雑念は無くなるようで、少しでも早く泳ごうという気持ちになる。結局の所、いろいろ考えても無駄で、今あることしかできないのだ、と悟って帰宅した。しかし気になるので、書斎に入ってメールをチェックしたら、なんだ、何も気にすることはなかったのか、と安心をし、研究データをすぐに処理したら、なんだ、意外と良い結果ではないか、と安心した。心配して損した、と思った。人は、勝手に心配し、気を揉んで、心の無駄遣いをするようだ。何も心配する必要はない。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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