今は、金曜日の夕方、ブログを書くには変則的だが、事情は書けないが、今日しか時間がない。世の中は、なかなか自分の思い通りにはいかないことは、百も承知しているが、それでも凡人の身としては、なるべく都合の良いことが起きないか、と考えている。誰でも、そんな思いで過ごしているのだろうが、棚からぼた餅はあり得ない、と思いつつ、どこかそんな期待をするのだろうか、詳細は書けないが、時折、そんなことを考える。今日も、1日が終ろうとしている、天気が良いので、窓の外は明るい、明るい空を見ると、心が癒されて、穏やかな気持ちになるが、そうやって、人は日々を過ごしているのだろうか。面白きことのなき世を面白く、とは、高杉晋作の句らしいが、昔から、英雄も凡人も、同じようなことを考えるらしい。国を二分するような大それた仕事は、面白いのか面白くないのか、わからないが、庶民は、些細な仕事をして、些細な心配事を抱えて、些細な喜びを味わうものらしい。たまに、嬉しいことが起きるが、それが続くことは、めったになく、後は平凡な日々が続く、それでも、平凡であることは、有難いことで、ニュースで流れるような出来事は、ほとんどが、恐怖か、信じられないようなことばかりで、平凡とは程遠い、あの世のことか、と見紛うようなことばかりである。それに比べれば、自分は、正常な神経で暮らせるだけで、この上ない幸せな生活をしている。ほとんどの人は、その幸せの中に包まれているのだが、それは、なかなか自覚できないので、ときどき暗い顔をするのだろう。今日は、まあ、あまり書くこともなく、短めに終わるとするか、と思い、新聞を見ると、女湯ののれんの赤に夏兆す(久保栞)の句があった。何か、なまめかしい感じもするが、確かにお風呂屋の女湯は、赤いのれんである。近所に、お風呂屋があるが、常連客がいるようで、昼間から並んで開店する時間を待っている。赤のれんを見ると、夏を連想するのか、分からないでもない、浴衣で身を包み、赤のれんをくぐるのは、どこか江戸情緒をような光景なので、ほっとするのか、小さな喜びを感じるのだろう、文脈はないが、そんな季節になりかかっている。はて、タイトルは何にしたらいいのか、今日は、どうも、読んでいただける方々に、お詫びしたい心境である。赤のれん、とは、何とも芸がない。