今は、土曜日の夕方だが、まだ外は明るい、日が長くなったと、実感する。外が明るいだけで、気持ちまで、どこか春めいた嬉しさがある。人間も、単純で、外の環境に左右されやすい。土曜日だから、オンラインはなく、午前に原稿執筆やメールチェックなどを済ませて、午後はスポーツジムに行った。明日も日曜日なので、ますます気が楽で、ワクワク感がある。原稿書きも、楽しい、というのも、出版の編集代表は知人で、自分はその分担執筆者なので、責任も薄らいで、締め切り日を守れば良い、という気楽さがあるからだ。1人ですべて執筆するのは、多くの時間を要し、精力的でなければ完成しない。何より、出版社に対して、販売数という責任がある。出版社は何も言わないが、自分の方が気を遣うので、売れないと申し訳ないのである。ボランティアで出版業をやっているわけではないので、利益が出ないと、単なる学者の自己満足のためだけになって、誠に申し訳ないのである。自分が代表でなければ、余分なことは考えないで、ただ良い原稿を書くだけである、今日も、自分なりに評価できる原稿が書けたように思う。原稿を書くこと、それは大勢の人の目に触れることが前提なので、何か少しでも気になる内容を書くと、後々まで残ることになる。それは、書き手としては恥であり、自分の無知を公開したことになる。それでもいいじゃないか、と言われても、慰めにはならない、だから、自分で納得できない原稿は見たくないし、うん、これならいいだろう、とか、なかなかいいじゃないか、と思える原稿は、読み返したくなる。だが、ここにも、矛盾があって、一旦、出版社に送った後は、急に愛着が無くなって、興味が薄れる。出版原稿を書いている時、夢中になるのは、その時間だけで、後は別の世界になる。原稿書きも、講演資料作成も、自分の好きな趣味のような仕事なので、定例的な会議とか理事会や総会などの、形式的な決め事の仕事とは、違う。好きな仕事だけやれる人は、別世界に生きている人で、芸術家とか作家とか類まれな学者などであろう。自分などは、職人芸を磨いていると思っているので、この世の垢にまみれ、日常生活に埋没し、たまに行く温泉などが極上の喜びなので、平凡な生き方をしていて、芸術的な美を求めているわけではない。新聞に、菩薩彫る志功(しこう)の瓶底眼鏡(びんぞこめがね)春(相坂康)の句があった。棟方志功は、極度の近眼だったから、まるで瓶底のような眼鏡をかけて、板にしがみついて、懸命に菩薩像を彫っている、そんな光景を、どこかの写真集などで紹介されていたから、思い出す。彼は、芸術家であり、その作品は、多くの人々を魅了して、世界中に名声を広げた。彼には、その時間は、没我の状態であり、常人とは思えないだろう。春が来ると、彼の創作意欲は、ますます高くなるのか、分からないが、暖かい季節になれば、芸術家も職人も市井の人も、動物も植物も、すべての生き物が活気づくのだ。1日ごとに、春に近づいてくる、良い季節になる、やがて卒業式が来て、若者は旅立ち、入学式になれば、新入生となって、新しい世界が始まる。そして、それぞれの作品を作って、足跡を残していく。春よ来い。