内言と外言

今は、土曜の夕方、より少し前の時刻だが、書斎の窓から見える空は、曇っている。午前中は快晴だったが、今日は風が強く、体感温度がかなり低い。外に出ると、かなりの防寒服を着ていないと、厳しい寒さだった。と言うのは、先ほど、スポーツジムから帰宅したばかりで、一息ついて、書斎で調べ物をしてから、ブログを書いている。土曜と日曜は、オンラインか出かける用事がない限り、スポーツジムに行くように心掛けている。週3回を目標にしているが、2月とか3月のような忙しい月は、なかなか守れない。明日は、1日中外出するので、と言っても、仕事なのだが、時間が塞がっているので、スポーツどころではないが、今日は、有難い曜日で、心休まる日なのだ。特に、プールで泳いで、2階のプールが屋外とつながっていて、そこにジャグジーがあって、温泉のような温かさで、外気は身震いするほどの冷たさなので、その差が、なんとも気持ちを豊かにする。いつも、ジャグジーに身を浸す時は、街を見渡すのが習慣になっているが、今日は、空が晴れ渡っていて、雲が流れている光景で、こんな贅沢をしていいのだろうか、と思いつつ、午前中に書いた原稿のことや、明日の予定や、来週の仕事や打ち合わせのことなどを、思っている。身体が弛緩としているので、思うことも、あまり真剣ではなく、気の向くまま、という嬉しい雑念なのだ。来週の、あの打ち合わせでは、この話題はどうだろうか、とか、明日の仕事には、宿題があった、が、面倒だから明日の朝にやればいい、などと自己対話をしているが、もし言葉に出したら、頭のおかしい人だと思われるだろう。黙っているから、なんとか常人でいられる、思っていることを正直に言葉にしたら、ほとんどの人は、狂人扱いか、まともな人間関係は維持できないだろう。大人は内言だと、ビゴツキーは言ったが、その通りだ。同時に、思考することを、言葉が媒介するとも言っているが、何か思ったことを、言葉にして表現できれば、それは、物事を動かす、つまり仕事ができる。それを、内言だけで心の内に閉まっておくと、どうにもならないような息苦しさを覚えるだろう。モノ言わねば、心がうつうつとして晴れないし、モノ言えば、唇寒し秋の風のような後悔をする場合もある。子供のように外言だけで、すぐにモノ言うは、子供だから許されるのであって、大人の場合は、思慮が足りない、と批判されることもある。今日のブログに、こんな内言と外言を書くつもりではなかったが、筆が滑った。ただ、ふと気になった短歌を思い出した。病床の夫の寝顔にひとすじの涙のあとが白く残れり(佐々木節子)の句を読んで、奥さんもご主人の気持ちも、よく分かる。病床で寝たきりだろうか、やりたいことも一杯あるだろうが、それもできない、言葉に出すことも、どこか我慢していて、涙に自分の気持ちを託して、それも人に見られたくなかった、白い跡だけが、それを物語っていた。人が生きていくことには、どうしようもないこともある。その時、声に出してしまえばいいのか、じっと内に閉まっておけばいいのか、涙に託せばいいのか、分からない。自分は、このご夫婦には申し訳ないが、スポーツジムに行って、健康を維持したい、と思っている。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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