忙しかった1週間の終わりになって、ホッとする日が土曜日だが、こんな日にブログを書くのは、有難い。ブログと言えども、誰も読んでいないわけではなく、他人の目に入ることを思えば、なんだ時間を損したとか、元気がなくなった、では困るので、少しは、明るい話題にしたいと思う。とは言っても、近所を見渡せば、高齢者が多く、それは日本全国の何処でも見られる現象で、このままでは未来に希望が持てない国になってしまうので、国は、異次元の少子化対策を模索している。大いに結構、と同時に、高齢者も元気になるように、年齢に関係なく、異次元の高齢化対策をすべきだろう。これまでの経験を生かせば、世の中に貢献できることが多いので、子供の見回り隊だけでなく、多様な仕事を開放して、テレビの番人だけの生活から脱却する施策が望まれる。誰も好んで、テレビ画面にしがみついているわけではない、仕事がないから仕方なく、という反論が聞こえてきそうだが、因果関係は、仕事と高齢者の双方向のような気がする。比較的若い人も、早く引退したいとか、定年が待ち遠しい、とか、フリーランスになりたい、とか、どうも、覇気がないようで、例え、仕事があっても、逃げたいという気持ちが強いようだ。自分の仕事が特殊なのかもしれない、と思うのは、今日も、平日と変わらない仕事だが、ただ土日はスポーツジムに行く頻度が高いが、それは、ほとんど趣味のような世界だからだと思う。午前中に原稿を書いた、すぐに返信が来て驚いたが、編集者と自分の間に、原稿を介して通じるモノ、それは、趣味の世界で通じる共感のようなモノで、そうそう、それだよ、とか、あれあれ、で通じる世界なのである。それは、長い間連れ添った夫婦の会話のような感じで、大学院生などが5年以上も研究室にいて、一緒に過ごしていると、あれは面白い、と言って、そうだ、と共鳴したら、かなり本物に近くなっている。つまり、あれとか、面白い、とか省略語や代名詞で、通じるのである。それは、趣味も同じで、あれ、それ、面白い、詰まらない、がお互いに了解し合っているからである。そのためには、永い期間を必要とする。高齢者は、永い年月を生きてきた、その間に獲得した知識や知恵、技などは、まんざら捨てたものではない。新聞に、枝打の漢(おとこ)身軽や若からず(兼子嘉明)の句があった。そう言えば、自宅の外装をしてもらった職人さんや、自宅の改装を請け負った大工さんも、高齢者だったが、その身のこなし、その技の凄さ、出来ばえの見事さ、など、どれを見ても一流だった、文字通り、年季が入っている、と感嘆したことがある。こんな技術を持った人には、引退とか年齢制限などは不要である。その職人さんも、たぶん、趣味のような感覚を持っているのではないか、と思う。自分が、その域に達して、書いているのではなく、永い間続けていると、仕事とか趣味とか遊びとか楽しさとか苦しさなどの垣根が無くなって、言葉も要らない世界になる、と言いたいのである。もう、窓の外は暗くなった。明日は日曜日だが、一日中都内で仕事の予定で、朝早くから出かけるが、半分は遠足気分でもあるし、緊張感もある、境界が無くなっている。