今は、土曜日の夕方、スポーツジムから帰宅したばかりで、書斎の窓から見える西空は、まだ明るい。風は強かったが、快晴の天気で、典型的な冬空である。プールで泳いで、屋外にあるジャグジーに身を沈め、青空を眺める気分は、解放感で満たされる。ジャグジーの横に、ガーデンチェアがあって、そこに腰を降ろして、街の様子を眺めたいが、この強い冬の風に当たるのは、さすがに避けて、室内のサウナに入って、汗を流した。と言っても、気休め程度の時間だが、束の間のリゾート気分になる。シャワーで身体を洗い、帰り支度をする。帰宅する方向は、西向きなので、歩いていくと、西空の方角に明るい陽射しがあって、雲を照らすので、白色と灰色が混じった雲が、西空を覆っている。冬の夕方か、と思いながら、帰宅途中に、市立図書館の分室があって、ふと中を覗いてみたくなって、入った。雑誌や新聞のコーナーがあって、かなりの人が、読んでいる。図書館は、当たり前だが、話す場所ではないので、誰もが黙って読んでいる光景は、冬に合っている。ここに来て、本などを読んだ経験はないが、新聞でも雑誌でも、今月、先月などに分類されて、膨大な量が陳列されているので、調べ物をしたい時には、好都合だろう、と思ったが、インターネットの時代に、新聞や雑誌でもないだろう、と気付き、では何故だ、と言えば、時間潰し、ということになる。自分も、仕事が無くなったら、今の団体役員のポストを辞退したら、原稿などの依頼が来なくなったら、委員会の委員などのオファーが止まったら、この図書館に来るかもしれない、所在ない時間になるのだろうか、すると何が生きがいになるのか、などと思いが広がった。自分の同僚など、多くの年配者は、それは一大事であって、それで苦しんでいる。思えば、小さな仕事があるだけ、小さなオファーがあるだけで、大きな幸せを感じることができる。それでも、人は我儘な生き物で、仕事が思ったようにいかない、相手の人が動いてくれない、などと不平を言う。そして、時間が経ってみると、そのほとんどは、自分の力量不足から生じることに気が付いて、ああ、自分も歳なのか、などと決まり文句の愚痴を言うようになる。好々爺とか悟りを開いたような人になれないことは、当たり前である。だから、水戸黄門のような人物に、人気があるのかもしれないが、番組は、願望の作り話なので、現実にはならない。さて、どう生きるのか、と言っても、仕方がない、目の前にあることから、やっていくしかないのだろう。小さな不平を言いながら、少しばかりの自己卑下をしながら、少しずつ、進んでいくのか。とすると、昔の人は、偉かった。クラークの指差す指に積もる雪(藤林正則)の句を、新聞から引く。作者は札幌市と書かれていたが、志を持っている人は、些細なことには拘泥しないのか、自分の住む市内は、冬の風程度だが、札幌では雪景色になるのだろう、作者は、このクラーク像を眺めて、何を思ったのか、偉人にあこがれたか、自分には、到底無理だと思ったか、元気をもらったのか、寒い冬の季節は、自分を振り返させて、何かを感じさせる。小さな自宅の庭に、緑色の雑草があちこちに見えてきた、ピンクの梅の花が、ちらほら咲いてきた。もうじき、暖かい春が来る。