今は、13日金曜日の夕方、外は、薄暮だが、もうじき陽は落ちるだろう。13日の金曜日とは、縁起が悪いかもしれないが、明日は土曜日だと思うと、少し嬉しい。今日は、午前に学校訪問をして、お昼の時間にジョギングをし、その後、教育委員会の方の来客があって、会議の事前打ち合わせを自宅でして、その後、石油ストーブの灯油を買いに出かけ、ホッとして、書斎に上って、今ブログを書く時間になった。その間に、メールのチェック、嬉しい知らせもあれば、そうでない連絡もある。人の世は、ままならぬもので、いつも仕事が輝いているばかりでないことは、人生の黄昏に近くなった自分としては、骨身に沁みている。仕事ばかりではなく、家庭のこと、家族のこと、健康のこと、その他、諸々のことは、波のように、山もあれば谷もある。ただ、いつもブログで書くように、小さいさざ波であってほしい。私的なことなので書けないが、自分としては、2つの嬉しいことと、1つの都合の悪いことがあった。しかし、それは、小さな出来事で、気にしなければ何でもないのだが、人とは、どんな小さなことでも、嫌なことは、どうしても気にかかり、脳のどこかに常駐しているようで、晴れ晴れとしない。そんなことは、詰まらぬ、と思っても、悟りを開いた達人ではない平凡な市井人としては、気になる。江戸の昔の女性なら、井戸端会議で、コロナ禍前のサラリーマンなら、気の合った友人と、一杯飲んで憂さ晴らし、ということになるのか。考えてみれば、そんな風にして、波にさらわれないように、という処世術を覚えてきたのだろう。今日、気になることが、引っかかっていたのだが、ふと、それでも、対応できるだけましではないか、と思った。詳細を語っていないので、意味不明な言葉だが、うまくいかない時は、そうであっても、そのレベルより下のレベルを考えれば、何でもないことに、気が付くのである。都合が悪いこと、と言っても、健康だからいいではないか、経済的に困っていないのだからいいではないか、仕事を頼まれるだけ有難いではないか、と思うと、ほとんどは、何も困ってはいないのだ。年齢と共に、体力も知力も精神力も、徐々に衰えることは、自然の摂理であって、不可逆的現象なので、それに掉さすことは、合理的思考ではない。そう思えば、実は、有難いことばかりなのだ、と思える。新聞に、別れ際不意打ちのごと友の言ふ夫の認知症進みてゐると(秋葉美恵)の句があった。そうか、認知症も進むのか、それが自然で、不可逆現象だから、その通りで、外から見れば、可哀そうに、と思えるが、本人にしてみれば、それは分からぬ、意外と、食事ができるだけ、ぐっすりと眠られるだけ、有難いと思っているかもしれない。自分は、年齢と共に、有難いと言える、有難爺さんになりたい。昨年の年末、加山雄三が、テレビ番組の中で、有難いと連発していたが、良い歳の取り方をしていると感心した。自分も、そうなりたい。