冬至の頃

今は、土曜日の夕方、外は夜、漆喰の暗闇だと言って良いだろう。もうじき冬至で、今年は12月22日だそうで、この日は、昼間の時間が最も短い。こんな日は、ちょっと熱めのお風呂に入って、鍋物、例えばほうとう鍋とか、ともかく暖かいものを食べたくなる。そう言えば、ほうとう鍋は数日前、昨日はなぜか餃子、その前は、豚肉のステーキと言えばカッコよいが、豚肉をフライパンで温めたもの、料理レシピに疎いので、そんな料理だった。今日は、忙しく、というより、今週は、何故か忙しかった。理事会シーズンと、研究会のシーズンなのか、まだ学校は冬休みではないので、セミナーシーズンではないはずだが、何かイベントが多かった。オンラインになったので、移動時間がないからか、予定が、すっぽり入って、喜んでいいのかどうか分からないが、ともかく、手帳が埋まる。人は、慣れる動物なので、それが日常になると、何の不安もなく、むしろ快感になるのは、不思議ではない。特に、昨日と今日は、手帳にすき間がなく、自分でもよく仕事をしているな、と感心する。忙中閑在り、というより、頭だけでなく、身体を使わないと、どうしても、健康維持ができない。1時間とか1時間半などの中途半端な時間では、スポーツジムに行くのは無理で、ジョギングしかない。ただ、冬至に近い時期では、すぐに外が暗くなるので、それを意識して、時間をコントロールしなければならない。しかし、運動を怠ると、すぐに体重計の数字に叱られる。今日は、暗くなってジョギングから帰宅したが、自分のような年齢では、危険である。以前にも、骨折した苦い経験があるが、このスケジュールでは仕方ない。戻って、グレープフルーツをかじると、ビタミンCとクエン酸が身体じゅうに染みわたり、健康になったような気がする。汗をかいた身体を、すぐに、お風呂に浸すと、極楽のような気持になるが、その後、ブログ書きがある、そして、夕食になる、それが、今日の予定なのだ。楽しみの前には、しなければならないことを、予定通り実行する、それが、日常になるのだ。ブログ書きは、別に嫌でもなく、書いている内に、なんとなく安心するのか、それは、宿題をやり終えた子供の気持ちと同じだろう。新聞に、短日に算盤(そろばん)塾の読み上げ算(桜井俊治)の句があった。子供も、別に算盤塾に行くのは嫌ではないだろう、日常の1コマなのである、この時期のように、すぐに外が暗くなり、学校帰りか、自宅から塾に来るのか、もう塾には灯りが点っていて、窓ガラスか、たぶん曇りガラスのような外から見えないだろうが、そんな部屋から、読み上げ算の声が聞こえてくる、と勝手な想像をする。だが、小学生が、たぶん中学生ではないだろう、算盤に向かっている様は、どこか郷愁を誘う、それは、かすかな記憶なのか、その頃の自分を思い出すからからかもしれない。冬至の頃、それは、電灯が灯る部屋を想像するのは、外がすぐに暗くなるからだろう、灯りの温かさに、癒されるからだろう。今夜の夕食のおかずは何だろう、レシピは知らないが、温かい料理だろう、有難きかな。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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