日々変わる

今は、変則的な時刻で、火曜日の昼間で、まだ外は明るい。今日の夕方に時間が取れず、午後の隙間時間を使って、書いている。1時間半くらいあるので、週に2回のブログタイムに充てた。午前は、市内の学校を訪問して、授業参観をして、午後は、研究会の打ち合わせで、オンライン会議を持ったが、朝から小雨が降って、肌寒い気温だったが、今は、そうでもない。自分は観戦しなかったが、今朝の真夜中に行われた、クロアチアとのW杯のサッカー対戦で、惜敗した、というニュースを、早朝に目覚めて、スマホで読んだ。お昼も民放のテレビ番組を見た。なんとも残念だが、仕方がない、これがスポーツであり、競技なのだから、いつまでも奇跡のような歓喜は続かない、と知りつつ、現実に戻るのだろう。熱狂的な応援や、テレビ報道に、日本中が湧き返った、のだが、その熱気は、いつまでも続かないことは、動的平衡論で証明されている。脳科学の専門家である福岡先生の説だが、古い細胞は次々に壊れて体外に排出され、新しい細胞が生まれるので、人の考えや情熱のような感情も、移り変わっていくのだ、と言う。このブログでも、動的平衡論の考えは、何度か紹介した、のは、自分の好きな理論だからだが、振り返って見ても、あれほど熱中したのに、とか、あれほど、落ちこんでいたのに、とか、自分も含めて、周囲の人を見渡しても、なるほど、と思うことは多くある。ご主人を亡くした、見るも哀れな御婆さんがいて、1ヵ月も経たないうちに、前よりもはるかに元気になって、自由の身になれた、かのように、羽ばたいている光景をみると、人は、何も深刻に考えることはないのだ、と納得できる。たぶん、サッカー熱も、いずれ色あせていくだろう、それが正常で、いつまでも引きづっていたら、生活ができないのだ。福岡先生の論説でも、失恋したからと言って、何も心配することはない、と書いてあったが、その通りだろう。何かのきっかけで、すぐに元気になれる。新聞に、身は老いて花作りさえ遠のくも久々の苗に手ははずみけり(平井和子)の句があった。高齢になって、なかなか花つくりもままならない日々を過ごしていたが、久し振りに苗を手にすると、きれいな花を咲かそうか、とか、新鮮な野菜を作ろうとか、どこか身体の奥のほうから、湧いてくる源泉のような力を感じたのだろう、いくつになっても、何かのはずみで、自分がまだ動けると実感すると、どこかワクワクするのだ。いい句だ、と思うし、それが、人間の本性だろう。自分も、やはり駄目か、もう歳だから、と思うこともあるし、メールを読んで、ほんの小さなことでも、何かを頼まれると、途端に嬉しくなって、よし、やろう、否、よっしゃ、やってやろう、任せてくれ、がそのままの言葉だが、そんな気持ちになる。また、その逆も起きる。うーん、人の生き方とは、ままならぬもの、自由に変わるものらしい。脳科学によれば、細胞が日々刻々と生まれ変わっていくのだから、それが自然で、それで良いのだ。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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