祭りと仕事

今は、火曜日の夕方、と言っても、書斎の窓から見える光景は、真っ暗である。午後5時半を過ぎると、夜であって夕方ではない。もう11月なのだ、あっという間に月日が経っていくが、今年も残り2か月になった。今日の天気は朝から夕方まで、ずっと曇り空で、しかも気温が低いので、晩秋か初冬のような天気で、街ゆく人も、どこか背を曲げて歩いていくようで、昨日や一昨日とは真逆の光景になった。一昨日の日曜日は、所沢フェスティバルで、航空公園に家内と午後に出かけたが、もう大変な人出で、4年ぶりの開催で、好天気に恵まれて、大公園が人、人、人で、埋め尽くされた。長い行列に並んで、ようやく大串肉と生ビールを買って、持ってきたビニールシートを敷いて、昼食を取ったが、公園の芝生で、よく晴れた大空の元、小さな子供たちが喜んではしゃぐ姿を見ながら、食べるのは、格別の味がする。生きていて良かった、の表現は、オーバではない。少し散歩をしながら歩いていくと、あまりにも似た幼児がいたので、思わず、見とれていたが、母親に聞いたら、三つ子だと言う。ママとパパに囲まれて、3人の女の子と少し大きい男の子、の4人は、見たことがないような大勢の人の中で、芝生の上を勝手気ままに動いている、と言っても、まだよちよち歩きなので、遠くには行けない、しかし、4人の子宝に恵まれた父親は、もう汗だくで、他人にぶつからないように、遠くに行かないように、腰を屈めて動き回っている。お握りを口に入れたまま、4人に振り回されているが、母親は悠然として、シートに座って、にこにこしている、なるほど、子育ては、ママがパパより、はるかに上手だが、男女共同参画の現在、男親がビールを飲んで面倒を見なければ、非難されることは間違いない、などと意味のないことを考えながら、その幸せな家族を後にした。近くに、太鼓の競演があって、などと書くと切りがない。ここで、似た光景の句を、新聞から引く。倉の街市制一〇〇年秋祭(福田愛子)、の読み手は、川越市と記されていたので、川越の祭りだろう、今年は、開催されるのだろうか、この作者は、祭りが待ち遠しくて、あの街中の人が繰り出し、山車が出て、太鼓や笛で、ひょっとこが踊る、それは、子供の頃から見慣れた光景で、4年間も我慢したのだ、という思いがあるだろう。航空公園で出会った三つ子の幼子も、楽しい思い出を脳に焼き付けただろうか、その時、汗だくで動き回っていたパパもいたことも、覚えていてほしい、それだけで、親は大満足なのだ、祭りは、どこか、小さい時から脳の奥に閉まっておいた、小さな宝を取り出して、もう一度眺める時間なのだろうか。今日は、都心に出かけて、イベントに参加して、自分の所属する団体の代表としての役割を果たした、その後も、諸々の仕事をしてきた。身も心も安らぐ時もあれば、寒空を眺めながら、仕事をして役目を果たす時もある、だから、良いのだ、生きていけるのだ、浮かれてばかりだと、大惨事を招くこともある。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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