もうすっかり外は暗くなった。今は、火曜日の夕方だが、先ほどまでオンラインの会議があって、一息ついて、今日はブログを書く曜日なので、机に向かっている。何故か分からないが、9月からずっと忙しさが続いている。今日も4つの打ち合わせや会議があった。先ほどの会議は、省庁の委員会で、座長という立場なので、昨日の朝、事前レクをオンラインで受けて、内容を理解して、今日の会議に臨んだ。凄いと思うのは、省庁スタッフの働きぶりで、文字通り、詳細まで精通していて、座長には、事前レクをして、戸惑わないように、会議を進行させる準備をしている。それは、大臣答弁と同じで、官僚が頭を使って、答弁の原稿を作成しているが、自分のようなものでも、同じような配慮をするとは、日本の官僚機構は、凄いとしか言いようがない。日本は、政治家よりも官僚で動いている、という説に賛成したい。4つの打ち合わせの間に、少し空いた時間があったので、ジョギングをして、汗を流した。忙しいと、時間がもったいないと思うのか、ちょっとした時間でも、ジョギングをしたり、文献を調べたり、原稿書きをしたり、休むことがないのである。そうすると、不思議に、気が付くことがあって、そのタイミングが絶妙に合うので、仕事がはかどる、という因果関係になる。今朝思いついたこと、明日の訪問先にメールを出しておこうとか、実験の予定表を印刷しておこうとか、何でもないことが、後で大きな効果を産みだすことがある。それは、忙しい時間のほうが、成功の確率が高いように思う。時間があって、じっくりしていたら思いついた、などはあまりない。最近、そのような気付きで、苦にしていたことが解決したことが数回あった。なるほど、考える、とか言うが、どうも自分の力でアイデアを思いつくのではなく、天から舞い降りてくる、というと文学的な表現だが、直感なのである。それは、忙しさの中であり、仕事の合間、運動している時など、何か活動をしている時であって、静かに、物思いにふけっている時ではないように思う。歳を取ってくると、仕事が少なくなって、時間が余ってくるのが、一般的である。確かに、自分も若い頃とは、時間の使い方、仕事のスピード、文献の読み方などは違っているが、今の自分に相応しい、忙しさ、余分なことを考えなくて済む時間があって、それが快い生活のリズムになっているような気がする。若い時は、それが当たり前で、忙しさの中に身を置いているので、仕事も、遊びも、すべてに夢中になれるのかもしれない。妻子率(い)て父ひとり待つふるさとへ帰りし頃がしあわせだった(藤川幸雄)の句を新聞から引く。仕事で忙しく、夜遅く帰宅して、奥さんや子供の待つ我が家に帰って、夕餉に向かう、束の間の一時、お酒の一本もついて、どこかほろ酔い気分で夕食を済ませて、翌日は、朝早くから電車に乗って、たぶん、座席に座れない通勤時間で、職場に着けば、忙しい、と言いながら、時間に追われる毎日を過ごす。そして、年に2回くらいの帰省で、小さな親孝行かと思いながらも、年老いた父親との対面をして、それは極上の幸せだったのだ。忙しさとは、そういうものなのか、ぼやきながらも、幸せを運んでくれるものらしい。