静かな秋の光景

今は、土曜日の夕方、ジョギングから帰宅して、お風呂に入って、一息ついている時刻である。もうシャワーでは寒いので、お風呂で汗を流すと、疲れも飛んで、身体もさっぱりして、リラックスするのだが、心もきれいになるのも、当然だろう。1日の内には、きれいな心だけでなく、人をうらやんだり、なんとなく沈んだり、悲観してみたり、様々である。人が人である以上、身体も心も、山あり谷ありで、プラス思考もあれば、マイナス思考もある。自分に都合の良いことが起きれば、プラスの心になり、都合が悪ければ、マイナスの心になることは、世の常である。ただ、世の中は、そう単純な因果関係だけではないようだ。講演を依頼されたが、昨年と同じテーマで、同じ対象者で、同じ時期で、という、まったく同じ条件なので、新しい資料で、新しい枠組みで、新しい理念で、新しい事例で、と考えると、この短期間では無理だろう、と思ったので、断るつもりだったが、そこが貧乏性の性格なのか、楽天的な面があるのか、引き受けた。たぶん、苦吟しながら資料を作るのか、と想定していたが、新しい方法が浮かんできて、予想以上に早くできた。思い過ごしだった。やってみれば、どうと言うことはなく、道は開ける、方法が見つかる、なるほど、やってみれば楽しい、という単純なことを知った。今日のジョギングも、あまりにも空がきれいで、風も爽やかなので、つい走りたくなった、走ると、周囲の風景が、秋らしく、黄色い葉っぱ、小川の流れも優しく、小鳥たちも安らかで、公園では、大勢の子供たちが、大人も混じって、球技に夢中になっている。折り返しの途中で、ある家を通る時は、大人なのか子供なのか、誰かが、ピアノを弾いていて、その演奏が、走っている自分の心に馴染んでくる。いつも、その家を通る時、夕方の時間には、ほとんどピアノの演奏が聞こえてくるので、どこか懐かしい気がする。そして、自宅近くの小さな公園まで来たら、童謡の「ふるさと」の曲が拡声器から流れてきて、子供たちに、家に帰りなさい、と促している。子供の絵本に出てくる、里の秋、そのもので、こんな光景は、自分が子供だった頃と、変わっていないようだ。公園での子供の遊びも、ピアノの演奏も、帰宅を促す音楽も、すべてが、学校と結びつている。学校とは何だろう、自分には、宝物のような存在で、小学校から大学まで、そこに行けば、すべてを許してくれそうで、1日を過ごして、悔しかったとか、腹がたったとか、嬉しかったとか、さぼって無駄な時間を過ごして反省したとか、さまざまあっても、お風呂に入れば、すべてを洗い流してくれる、と同じように、すべてを包み込んでくれて、ふるさとの童謡のような、優しい気持ちにさせてくれる。学校は窓から暮れる赤蜻蛉(荻原行博)の句を、新聞から引く。昼間は賑やかだった教室も、子供たちがいなくなれば、もうそこは夕方で、静かな秋の光景になる。秋が来て、やがて、秋深し、の季節に向かう。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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