曼殊沙華公園

今は、水曜日の夕方、外は小雨が降っている。平凡ながら、アッと言う間に時間が過ぎて、もう夕方になった、そして水曜日になった。昨日の夕方に書く予定が、無理だった、さぼっているわけではない、何か、駆け足で、時間が通り過ぎていく、今日は何があったのだろう、先ほどまで、長い長い審査系のオンラインがあって、ようやく一息ついた、が、本当は審査評価表を埋めるつもりだったが、明日の朝、6時から7時までの間にしようと予定を変更して、今ブログを書いている。昨日は、3つのオンライン会議が入っていて、最後の会議が長引いて、ブログの予定が今日に延びたからだ。月曜日は、研究指定校に行って、講演をして、帰宅後に、気になっていた資料作成をしたら、1日が暮れた。その前の日曜日は、楽しみにしていた曼殊沙華公園に行って、真っ赤な花を満喫した、と言う訳ではなく、もう盛りを過ぎて、文字通り、お詫びでもするように、首を垂れている光景だったが、真っ盛りの夏のような陽射しで、こんなに人がいたのか、と思うくらいで、昼食会場は、もう座椅子がなく、木陰で腰を降ろすような人出だった。出店で買った、お握り、唐揚げ、缶ビールは、もう絶品で、生きていて良かった、と思うくらいだった。家内と汗をかきながら、見どころ外れの一面の萎れた赤い花を見たが、主催者も、さすがに、入園料を無料にした。地元の野菜の漬物が、どうしようもないくらい美味しくて、3個1000円で買ったが、3日で、自分だけで食べ終わった。帰宅して、その後、スポーツジムに行ったから、夕食後は、もうクタクタで、大河ドラマを観たら、すぐに鼾をかいて寝てしまった。という訳で、明日も、何かと用事があって、ふと思う。自分は、まだこうして生きているのか、人生の峠は、はるか昔に超えているが、まだ大丈夫、最後に、そっと静かに息を閉じれば大往生だろう。いろいろなことが舞い込んでくる、これは無理、と思うこともあるが、生まれ付いた貧乏性のためか、時間がある限り、やってみよう、と思うのは、表現欲がまだ潜んでいるからかもしれない。この広い野原いっぱい咲く花の見えないところに車が一台(小杉なんぎん)の、何やら歌の文句のような句が、新聞にあった。この句で、曼殊沙華公園を思い出すのは、公園の中に駐車場があって、親子連れが、広い草一面で遊んでいて、我々老夫婦が、その草むらに行った時、ちょうど親子連れが、車に乗って帰る時だったからである。幼子のはしゃぐ姿を見る、若い夫婦は、今が幸せの真っ只中だろう、でも、心配しなくても良い、自分たちのような年齢になっても、年相応の楽しみ方があって、毎日を生きていけるから、と言いたくなった。まだまだ、大丈夫。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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