今は、火曜日の夕方、西日が空を明るくしていて、西窓に面している書斎の机から、白いカーテン越しに、外を眺めている。お盆は終わった、というか、今日は送り火を焚く日なので、まだご先祖様は、暗くなるまで在宅しているのだが、明日から平日に戻るのか、という嘆息にも似た感覚がある。とは言え、コロナ禍で年中オンラインで仕事をしている身としては、明日から平常の生活に戻るわけではない。年中、同じ生活パターンで、ことさら改まるわけではない。事実、今日は、対面で仕事の打ち合わせをした。都内の事務所で、と言いたい所だが、溜池山王まで電車に乗って行くのが、面倒というか、腰が重いのは、もう在宅勤務にすっかり慣れてしまったからだろう。身も心も、この生活の居心地が良くなって、今さら元に戻りたくない、と思うと、一体、通勤とは何だったのか、都心の高い家賃を支払って事務所を借りる意味は何だったのか、どうも、分からなくなってきた。だから、今日の打ち合わせは、所沢駅構内の洒落たレストランで行い、自分としては快適な対面での仕事だった。打ち合わせは、喫茶店か蕎麦屋かレストランで十分ではないかと思う時、この頃、自分の価値観も変化してきたことに気が付いた。他人がどう思っても、自分やお互いが気に入っていれば、いいではないか、世間のしきたり、規則、常識、道徳など、主語を、世間から自分に代えれば、この上なく自由になれる。この前、スポーツジムからの帰り道に、親子連れに出会って、アッと声を上げた。まだ幼い女の子だが、上は服で下は浴衣で、あるいは、その逆だったか、何とも違和感があったが、親子が楽しそうに、談笑しながら歩いていった。そうか、いいではないか、本人が気に入っていれば、世間を気にしないほうが、よほど優れた考えではないか、と、親子に教えてもらった。日本も未婚率が増えてきたと新聞報道をしているが、いいではないか、本人が好きな生き方ならば、と思えば何の問題もない。現実に、その通りで、本人が苦しみ悲しむより、気に入って楽しいなら、世間とは離縁してもいいではないか。犬掻きで泳ぐ子に母手をたたく(向井克之介)の句を、新聞で読んだ。犬掻きだろうと何だろうと、母親は嬉しくてたまらない、我が子が泳ぐ様子に夢中になって、周囲の人なんか、目には入っていないだろう、それでいいのだ。いいじゃないの幸せならば、という古い歌謡曲があった、と想い出した。今の時代、衣服の価値観、職業の価値観、学歴の価値観、結婚の価値観、異性の価値観、金銭の価値観、レジャーの価値観など、すべてが世間の常識から、自分の常識に変わってきたような気がする。昭和の時代の古い人間からすれば、それでいいのか、と思いつつ、それでいいではないか、の方に、軍配を挙げたくなっている。