楽しいが苦しく

今は、火曜日の夕方、少しばかりの雨がちらついて、気温を下げて、過ごしやすい日中だった。このようにして、陽が陰り、時間が過ぎて、1日が終わり、明日を迎え、1週間が過ぎて、やがて1ヵ月が経ち、ということなのだろうか。忙しいという訳でもないが、時間の過ぎるのが早く、自分では本来の仕事だと思っている原稿執筆などの時間が取れない。それは、好きだけれども、時間が余れば取りかかるレベルの仕事であって、贅沢なことなので、させてもらっている感覚である。それが、仕事のすべてであったら、楽しいかと言えば、そうでもあるし、苦しいことでもあるだろう。同じような趣旨を、ベストセラー作家の佐藤愛子が、エッセイの中で述べている。苦しいのだが、しかし止めるわけにはいかない、会心の文章が書けると、この上ない楽しさや喜びがあり、書かずにはおれないと、綴っている。筆を絶つと、どうなるのか、書くことがすべての作家にとっては、生きる甲斐もなく、生きる屍になると、そのエッセイの中で、父親佐藤紅緑の晩年を描写して、述べている。その通りだろう。書くことが生きることのすべての作家にとっては、書くことが楽しさの源であり、それが止められることは、温泉の源泉に蓋をすることと同じだから、生きる甲斐がなくなる、しかし、源泉が枯れることなく出続けることは、人間にはあり得ない、というか極めて稀であろう。人は、生物的な寿命という区切りがあって、次第に細胞が死滅していくのだから、若い頃と同じように、ということは、自然の摂理に反するからである。仕事が無ければ、生きていけない、仕事をするには、エネルギーが必要で、その活力の元は、少しずつ枯れていくので、仕事の質は下降していき、やがて止まる、という運命になる。楽しいが苦しく、面白いが悲しいことが、仕事の本質なのかもしれない。立場上はいと言えない日々にいて働くことは長い寸劇(吉村おもち)の句が、新聞にあった。寸劇だから、そのセリフは決まっている、はいと言いたいのだが、言えない役柄なので、というのは、仕事をする人の心情を物語っている。どんな役だろうと、演劇が好きな人にとっては、楽しい演技であるが、現実の仕事の場面では、演劇と同じように、言えないセリフがある、そうだなーと、同感した。昨日も今日も、やりたいこととは別の仕事で、時が経った、しかし、それは、自分のやるべき仕事であり、役者として果たさなければならない、重要なセリフなのである、と自覚しながら、自問している。生きるということ、仕事をするということは、そういうことなのだ、それでいいのだ。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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