今は、連休の真ん中、5月4日であるが、スポーツジムから帰宅して、いつものように、2階の書斎で西向きの窓を正面にして、パソコン画面に向かっている。この机、このパソコン、この書斎は、文字通り相棒である。そして、机の隣にあるCDプレーヤーから音楽が聞こえてくる。今、聞こえてくるのは、朝はどこから、の曲で、どうして童謡とかラジオ歌謡の曲は、心が馴染むのだろうか、心が昔に戻るからか、この世の騒音とは正反対の、優しい音色である。昔、通販で買った、フルオーケストラによる曲が気に入っている。物事がうまくいかない時でも、落ちこんでいる時でも、怒りで心が渦巻いている時でも、いつも微笑みを絶やさない仏様のような存在で、耳に入ってくるだけで、救われるような気がする。プラスの脳内ホルモンのせいなのか、スポーツで汗をかいたせいなのか、午前中に取り組んでいた、次の企画がスタートできたせいなのか、どこか安堵感が、体中を浸している。ニュースを見るたびに、戦争の惨状、遊覧船の悲劇など、この世で起きることは、人間の浅ましくも邪悪な面ばかりで、脳内では、不幸ホルモンばかりが分泌されるようで、運動と音楽による幸福ホルモンで中和しているような気がする。新聞に、春愁や石に戻れぬ仏達(津布久信雄)の句があったが、文才のない自分には、正しく解釈できない。が、石仏に出会うと、思わず手を合わせて、お願いしたくなる、そんな石仏になれない仏様が多いというのか、それほど、この世の中は、物騒で極楽に行けそうもないというのか、自分には、分からないが、それは、どこか春の物憂い感じがする。昔の石仏は、道端にも置いてあって、周りは田んぼか畑で、お寺の鐘がなって、文字通り、童謡か学校の愛唱歌の世界であった。このCDには160曲が入っているが、鐘の鳴る丘、里の秋など、すべて郷愁をさそう。5月の連休の過ごし方は、今の自分の境遇では、普段とそれほど変わらないが、オンラインの仕事がないだけ、時間ができる、歳を取ると、遠出はしたくない、近場で、日帰り温泉などに行ったり、お墓参りや、庭の草取り、小さな買い物などをして、老夫婦二人で、時を過ごしているが、やはり普段とは違って、時間が余るからか、居間で取り留めのない話をしたりする。老後のこと、子どもたちのこと、趣味のこと、仕事のこと、もうそんなに長くは生きられないだろう、こんな物憂い春の日差しの下では、昔話も良かろう、観光ツアーも、温泉も、行ける時に行けば良いのだ、それだけ歳をとったのだ。