今日は土曜日の夕方、週末と週の中日の2回、ブログを書くことにしている、今は、その時間である。書斎の机は西向きで、白いカーテン越しに、夕暮れの薄日が差し込んでいる。南向きの窓は開けて、風を入れているから、今日はまるで春だと言ってもよい。スマホの天気予報では、20度というから5月並みらしい。夕方の日差しは、優しく、穏やかで、もう1日の終わり、土曜だから1週間の終わりを告げているようで、身も心も安らぐ。先ほど、スポーツジムから帰ったばかりで、椅子に身を任せて、気の向くままに、キーボードに向かっている。今日も何事もなく、と言っても、月に一度のお墓参りに行ったが、その他は平穏に時が過ぎていった。両親に、諸々のことを報告し、子や孫のことなどお願いしたが、願いを聴いてくれるかどうかは別にして、生きていれば、すべて平穏というわけではなく、波風が吹く、そして、両親ならば、その愚痴や願いを言っても、平気だろうという甘えがあって、家内と一緒に、線香をあげにいった。有難きは、身内であり、両親ならば、どんな時でも、味方になってくれる。こんな句が、新聞にあった。窓ごしに春の光が流れいる人工呼吸器はなせぬ妹に(佐川ヒサ)。作者はどんな人なのだろうか、よほどの重体かもしれぬが、妹が少しでも安らぐように、少しでも春の日差しで体が温まるように、少しでも楽しい夢を見れるように、と願うような気持が、伝わってくる。どんな状況であっても、人は、少しでも平穏に、少しでも幸せに、少しでも癒されるように、少しでも安らかに過ごせるように、願うものだ。まして、身内ならば、その思いは、なおさらである。ウクライナの悲劇が続いている。無差別攻撃をするロシア軍を指揮するプーチンは、人としての愛情を持っているのか、たぶん、残忍な人間、否人間でもなく、憎悪と欲望しかもたないロボットである。しかし、ウクライナの惨状を見るに忍びない、一刻も早く停戦してもらいたい、そして、傷ついた人々に、春の日差しが当たるように、少しでも安らぎと安堵と、幸せな一時を、つかの間でもよいから、与えてもらいたい。誰でもが願う、庶民の感覚である。