枯れていく

昨日は朝から夕方まで、4つのオンラインがあって、忙しかった、が、それが仕事をしている通常の姿である。今日は、オンラインが1つだけで、しかも、時間の関係上、このブログを書いた後なので、今日は何もしていないのかと、と言われそうだが、そうではなくて、データ分析をした。それは、研究活動の1コマなので、仕事というより、自分の分身のような活動であり、あえて仕事をしています、などとは言わない。歳を取っても、感心ですね、などと言われることも、どこか、的が外れている。あなたは、高齢でも、散歩したり、歯磨きをして、感心ですね、などと言われることと同じだからである。娘や息子は、父親はそういうものだ、と思っているから、大晦日でもお正月でも、書斎で何かをしている、それは生きている証拠だと思っているらしい。と言っても、仙人暮らしをしているのではなく、何かをしているので、生きているのである。このブログを書くことも、いつかも書いたように、隙間時間を使って、何の脈絡もなく、思いついたことを、書いているだけで、しかも週2回と決めている。以前は、毎日書いていたが、ある時、時間がどうしても取れず、2回にしたのだが、これが正解で、毎日というプレッシャーがないので、気楽なのである。話を戻すと、昨日は仕事に振り回され、今日はデータ分析に頭を使ったが、使う脳の部位が違うので、疲れ方や余韻が違う。ただ、人の世は、自分の好きな事だけでは生きていけないことは、当たり前で、そして、確実に歳を取っていく、身も心も枯れていく。それで、いいのだと思いつつ、人の煩悩は厄介で、まだ悟りきれないで、あれもしたいとか、まだまだ大丈夫などと思うが、そろそろ人生の黄昏を迎えて、それ相応の気持ちになったほうがいいかもしれない。昨日の新聞に掲載された句、流れつくプラごみの色とりどりに土に還らぬものの哀しさ(梅津哲郎)に、ハッとした。そうか、プラスチックは人工物だから自然に還らないとすれば、それはロボットのようなものであり、感情もない世界である。我が家の小さな庭だが、少しばかりの芝があって、今は枯草色で、この色を見てホッとするのは、なるほど、人も草も人工物ではないので、同じ生物として共鳴するからかもしれない。芝がいつまでも青々していたら、それは毎日が青空のようなものかもしれないが、自然の摂理に反する、つまり哀しい存在になるのか。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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