今は、26日土曜日の夕方、スポーツジムから帰宅して、ブログを書いている。ブログを書くのは、それだけ時間的に、そして精神的も余裕があるから、と考えれば、良い時間なのである。夕方と言っても、まだ外は明るく、静かな一時で、季節は違うが、静かな静かな里の秋の歌詞が似合うような一時である。2階にある書斎は、自分のお気に入りの場所で、ここにいると心が落ち着くから、お迎えの時期が来たら、ここで静かに息が絶えたら、大本望である。仕事をしながらも良い、ブログを書きながらもいいだろう、文献を読みながらも、悪くない。こんなことを書くつもりではなかったが、つい筆が滑ったようで、ブログは、筋書きをまったく意識していないので、文字通り思いつくまま気の向くままなのである。だから突然に飛ぶが、ロシアのプーチン大統領のことに、触れないわけにはいかないだろう、中国などの1部の国を除いて、世界中の国や良識ある大多数の人々を敵にまわして、ウクライナに攻め入っている。同じ民族らしいが、身内に砲火を浴びせているようなもので、首都キエフの市民は、シェルター代わりに、地下鉄に逃げているようだ。この極寒の季節に、と思うと、表現する言葉が見当たらない。政治のことは避けて書かないが、人として心が痛まないのか、と、決して届かない怒りをぶつけたくなる。自分の今は、暖かい書斎で、明るい空を見て、昼間は春のような陽気で、日だまりは、揺りかごにいるような気持にさせる。遠い海外の事とは言え、このギャップの大きさは何だろうか、天国と地獄のような差だが、いづれの日にか、平穏な時が訪れるのだろうか。昨年だったか、コロナ感染者数が激減していた頃、何度か車で温泉に行った、特に、熱海や伊東などが好きで、湯に浸かっていると、身も心も癒される。こんな句が新聞にあった。蝋梅やバス折り返すところにて(本田修)は、まるで熱海の梅園を読んだかのような句で、梅園はバスの折り返し地点だったような気がする。昨年の12月だったか、きれいな蝋梅を見て、宿では、お湯に身体を包まれて、という思い出は、もう遠い昔のような気がする。いつ、そんな優しい時が来るのだろうか、ウクライナの市井の人々は、寒くて震えていないか、ひもじい思いをしていないか、子供は病気にかかっていないか、こんな残酷な時は、いつ去るのか、プーチンよ、悪魔のような馬鹿げたことは、すぐに止めよ。