今日は水曜日、というより祝日、天皇誕生日で、どこかノンビリしている。が、平日と変わらず、午前中は仕事をして、午後は諸々の用事を済ませるのが日課だが、今日はスポーツジムに行った。このブログでも書いた通り、下手なクラブを振ってボールを打ち、その後はプールで泳ぎ、夕方前に帰宅する。そして、今ブログを書いている。先週末から今日までに、いろいろな仕事があって、明日からも、すべてオンラインだが、仕事が待っている。面白く、ワクワクすることもあれば、うーん、と首が下に向くこともある。大人も子供も、いつの時代も、どこにいても、皇族も庶民も、人の生き様は変わらない。ロシアとウクライナの物騒な争い事もあれば、プールから上がって、ジャグジーに浸かって、街を眺めて、リゾート気分になる庶民もいる。こうして時間が過ぎていくのか、幼子には小さいなりの悲しみがあり、大人にはさらに大きな悩みもあるだろう。土間に落ちし茶碗の割れて幼子はつなぎ合わせて幾たびも泣く(梅本敏子)の句を新聞から引く。幼子の悲しそうな表情が目に浮かぶようで、大人から見れば、何でもないよ、大丈夫だよと、とつぶらな瞳から涙がこぼれるのを見ると、声を掛けたくなる。ということは、大人の悩みも、天にいる神から見れば、大丈夫だよ、すぐに片付くよ、問題ないよ、と言いたくなるであろう。それは、過去を振り返ってみると、その通りだと思うのだが、当事者になれば、その悲しみがすべてであって、それ以外は見えないのが、人の世の常である。自分のような年齢になると、どこか水戸黄門のような気持になって、というより、そうありたい、と願っていて、いろいろな事が起きても、まあこれまでの経験からすれば、どうにかなる、心配するな、という声を掛けたくなるし、自分自身もそんな心境である。最近は、よく相談される、面と向かってというより、何気なくどう思う、と言うような、そして同意してもらいたいような会話が、オンラインでもある。平凡だが、何でもないよ、と言うが、そのように言ってもらいたいのか、と思うことも事実だが、先の茶碗を割った幼児のように、何でもないのが本当のような気がする。だから、気休めではなく、本質は何でもないのだ。