夕食の楽しみ

今は、火曜の夕方で、窓から西の空がほんのり茜色に染まっている。明日も良い天気なのだろう、思えば、火曜か水曜と、土曜か日曜に、ブログを書く日になっているようで、週2回の割り振りが決まってきた。特に、夕方になると、どこか一息つく余裕も出てくるからだろう。今日は、昼間はオンラインの研究会で、比較的重要な会だったが、無事に、そしてほのかな余韻を残して、終わった。昨日は、忙しい1日で、都内に出かけて、午前は溜池山王で事務局会議、昼食を取りながら飯田橋で科研やその他の打ち合わせ、その後に新宿でインタビューを受けて、帰宅した時は、さすがに疲れた。足のギブスは取れたものの、革靴を履いて朝から夕方まで都心を動き回るのは、久し振りだった。駅の階段の上り下り、そして人疲れなのだろう、帰宅して、すぐにお風呂に入って、夕食のテーブルに着いた時は、こんなに有難いのか、と思った。が、待てよ、コロナ禍以前は、ずっとこんな生活だったのだ、もう電車通勤には戻れない。だが、どこか充実感があって、今日は、よく仕事をしたな、と自分を褒めたくなる。だから、1ヵ月に1回は事務所に行こう、と真面目に考えて、手帳に入れた。明日は、市内で講演がある、頑張らなくちゃ、と思う気持ちと、夕方にも、水曜サロンというオンラインがあるのか、きちんとこなせるのか、などと思う気持ちが、入り混じる。強気と弱気が、どこか混じって、自分は非力だと、どこか自信が無くなる時がある。世の中には、政治家のような、いつも強気の人もいるが、そういう人は、どこで気を抜いているのだろうか、自分には、真似できないので、そっと生きていこうか、と思うと同時に、やればできるから心配はしなくて良いとも、思う。人は、どうも割り切れない動物のようで、掴みどころがない。だから、あの人はこうだ、と決められないのではないか、相手によって、仕事の内容によって、時と場合によって、どの顔が出てくるのかは、分からないのではないか、と、あまり論理的ではない自分を振り返って思う。ただ、昨日のような日の夕食は、こんなに美味しいのか、お酒の一杯が喉を通る時、単純だが幸せを感じる。人は、このために、仕事をしているのかもしれない、コロナ禍以前は、そのような帰宅してからの幸せ度が、濃かったのかもしれない。鯛粗の白菜鍋のことのほか(田中靖人)の句が月曜の新聞に在った。鯛の粗(あら)を出し汁にすれば、白菜や他の具にも沁みこんで、美味になることは間違いない。作者も、夕食で、今日の幸せを感じているのであろう。それで充分なのかもしれない。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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