昨日は、午前中に原稿を書いて出版社に送り、昼食後にふと気が付いて、庭の雑草を取った。良い天気なのだが、良い、を通り越して、夏のような突き刺すような陽光が身体を包み、汗びっしょりになり、蚊も飛んでくる、汗をかくと匂うのだろうか、その防御に、網付き帽子をかぶって作業した。仕事が終わると、その出来栄えを見たくなるのは人情で、きれいになった庭、そこにバラの花が植えてあるのだが、それを眺めると、嬉しくなる。後で、家内が水を撒いて、花に水玉が光り、土が黒ずんで、何か生きる力を与えたような感じがする。バラの花は喜んでいるのだろうか、どこか会話する気持ちになる、古来、日本人は花を愛で、自然との一体感を大切にしてきたが、分かるような気がする。午前中の原稿も、送信した後でも、見返したくなる、それは、どこか余韻が残っているからで、原稿を書く時は、その中に入っているが、見返すのは、その時の知的興奮のさざ波にもう一度浸ってみたい、と思うからだろう。昨日は、こんなふうに、頭と身体を使って過ごしたが、気が付けば、敬老の日だった。年齢に関係なく、何かすることがあるのは、有難いことで、特にコロナ禍で在宅になってから、その感は強い。月曜の新聞に、風の日は風船かずら見て過ごす(井出真知子)、の句があった。風に揺れているカズラを見ると、心が休まるのだろう、かわいらしく、何を思うのか、心配事はないか、今は幸せか、など、話しかけているのかもしれない。雑草を取って、きれいになった庭を見て、バラや土に話しかけているのも、書き終えた原稿を見て、自問自答しているのも、この作者と同じ気持ちだろう。人は、何かしている時でも、何もしなくても、自分を取り巻くすべてに、語りかけているのかもしれない。