夕方のジョギング

昨日は月曜日、定例のオンライン会議はあるが、日常業務の話題は、ブログに馴染まない。さて、昨日は何をしたのだろうか、良い天気で吹く風が心地よい、と思ったのは夕方のジョギングの時だった。秋立ちぬ青地に白のテロップで知らせるように流れゆく雲(冨見井高志)の句が、先週の新聞にあった。昨日は西方向へのジョギングで、自転車で颯爽と下校するのは、高校生か、保育園の前を通る時は、先生が大勢の幼児に囲まれて、話をしているようで、その後ろ姿を夕日が包んでいる、そこを過ぎると、コンビニがあって、焼き立てのパン、の看板が魅力的で、どこか暖かさを感じる、そして、畑と隣り合わせで小川があって、男の子が川で魚を取っているのか、遊んでいるのか、大人になったら、懐かしく思い出すだろう、やがて、大きな公園に出て、大勢の子供たちが、大方はキャッチボールかサッカーだが、走り廻っている、ほぼ小川に添って走っているが、カモをよく見かける、大きなカメラでカモの光景を写真に撮っている人がいる、やがて、神社の前を通ると、その前に小さな公園があって、そこは、幼児と赤ちゃんと母親の世界で、落ち葉が敷き詰めた茶色に彩られて、どこか心休まるのだろう、もう秋か、いつの間にか気温も下がり、秋の虫の音が聞こえてくる。自分は、ここが良い、ここが住処で、ここで生涯を終えたい、と思う。夜、録画していた、山田洋治監督の映画「息子」を、家内と見た、そして、二人とも、このストーリに共感した。岩手県の雪深い田舎に住む父親は、家内に先立たれて1人暮らし、2人の息子は東京で暮らしているが、長男は親子4人のマンション住まいだが、父親の1人暮らしを案じて、同居を進めるが、父親は岩手に帰っていく物語だが、自分も家内も、この父親と同じで、同居はあり得ない。1人暮らしになっても、ここで良い、住むということは、生きるすべてで、先の句のように、流れる雲も、秋を自分に知らせてくれるのか、と思えば、空も小川もカモも公園も、すべてが自分の身内だからだ。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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