昨日は午前に都内の大学病院に行って、血液検査と診断を受けた。3ヵ月に1回の経過観察だそうだが、何も問題はなく、次回は半年後になった。今の大学病院は、設備が最新鋭で、血液検査を受けて30分後には、その結果を元に医師の診断を受けられる。午後は、市内の教育センターで、今年から始まる新しい研究指定校の運営委員会で、もう10年になった。永く関わらせていただき、歴代教育長も何人にもなった。年々歳々人同じからず、の例え通り、教育委員会の担当者は変わっていくが、自分は、年々歳々花相似たり、のように同じ席についている。帰宅して、メールをチェックすると、いろいろな仕事が舞い込んでくる。6月は理事会シーズンなので、忙しいのは理解しているが、7月は時間的な余裕ができる、と思っていたが、どうもそうでもないようだ。原稿、審査、実験など、締め切りが近いので、手帳にきちんと書いておかないと、迷惑をかけてしまう。その間に、出版の準備、資料作成、文献の調査、研究の準備など、自主的な活動がある。昔は、これらの研究に関する仕事と学生指導が重要で、その他のことは雑用と呼んでいたが、今は違う。すべてが重要で、そのことは、内心では、昔も今も同じである。昨日読んだ文献でも、頭が切れる優秀な人だから、仕事ができる、のではなく、仕事が多く、しかも、雑用のような多様な仕事があるから、頭が切れるようになる、という趣旨の研究が書かれていた。頭が切れるとは、脳が素早く、しかも的確に処理できるので、ボケない、ことに繋がる。ということは、高齢者になったから、ボケるのはなく、仕事や活動がなくなったり、しなくなるから、ボケる、ことになる。今の自分は、この意味で、ただ感謝するしかない。研究以外の仕事、コロナ禍での在宅、ワクチン接種、所属団体の仕事、家庭での諸々の仕事、庭の雑草刈、買い物など、すべて雑多な用事で毎日が満たされているが、それで良いのだ、だから人は存在できる、とは、ガーゲンの本を読んだからだが、識者には、拡大解釈だろう、と言われるだろうが、人は他との関係の中で、生きる、という考えに同感している。