昨日は、何事もなく平穏無事に過ぎた。手帳には仕事の予定を書いているので、その予定に従って、行動している。昨日は、海外論文誌の査読である。海外の論文査読は、英語だけに時間がかかる、だけでなく、英語が苦手だから意味を理解するのに、頭を使う。それはいいとして、どうも海外論文は、査読しても面白みを感じない。著者はヨーロッパ系の学者のようだが、欧米の研究者の論文は、文字通り型にハマっていて、隙がない。隙がないから面白くない、とも言えるが、型通りで、目的、方法、データ、結果、考察、参考文献と、その通りで、特に参考文献などは6ページにわたり引用している。人工知能の父と言われるアランチューリングの有名な論文、機械は知性を持つか、では、参考文献は1つもない。この論文は、確か数十ページにもわたるような長い論文だが、独創性に溢れていて、名著である。これは例外としても、型通りなのか、型破りなのか、どちらがいいかは分からないが、面白いことが、論文の良さを測る尺度ではないか。意外性があって、そうだったのか、と膝を打つような論文や本や資料に出会うと、宝物を探し当てたような喜びがある。という訳で、昨日は早々と、Webサイトから査読結果を送った。後は、GoogleOSのパソコンを操作していた。使い慣れたwindowsと違うので、戸惑うことも多いが、触っていると、少しずつ分かってきて、そうか、こんな考え方なのか、とか、こんな設計なのか、とGoogle の開発者の考えを知ることができる。とすれば、これも論文査読と同じではないか。論文は紙で、パソコンはデジタル機器だが、論文を読むのも機器の操作をするのも、同じではないか。論文の著者の考えや、機器の開発者の設計思想を、理解しようとして、査読したり、操作しているのである。新聞に掲載されていた小学生の文章、本を読むと自分だけの映画館が始まる、を思い出した。そうなのだ、本でも論文でもパソコンでも、そこに自分の物語を作って、楽しんでいるのではないか。それが、面白いのかどうかは、映画の評価であるから、論文や作品の審査員や機器の利用者は、映画評論家である。