昨日は午前中にオンライン会議があったが、審査系なのでここでは書かない。新聞の朝刊を見たら、地方版に歌壇があった。老いること許されてをり春愉し(兼子義明)が目に留まった。そうだな、今仮に自分が癌だと告知されても、手術はしないだろう、癌細胞共に、最後まで付き合う、そのほうが老いの生き様に合っている、と思う。若い頃や働き盛りの頃は、戦うこと、病気でも事業でも運営でも研究でも、仕事の種類は何であれ、なんとかしよう、という自分の意に添って、対象を変えること、それが生き方であった。しかし、老いることは、変える、戦う、なんとかする、よりも、受け入れる、添う、流れる、という自然な生き方がふさわしくなる。それは、ある意味で心地よく、春風に吹かれて、気負いもなく、今を楽しむ心境になる。前に、こんな句もあった。春風やどこまでもゆきたくなりぬ(北村和枝)、風って、どこまでいくのだろうか、ついて行ったら、山に行くのか海に行くのか町に行くのか、流れるままに風に乗ったら、どんな気持ちだろう、と思うのも、老いの気持ちに似ている。だから、老いは怖くないのだ。若い頃は、そう思わなかった、寂しいかもしれない、どう生活したらいいのだろう、と想像していたが、実はそうではない。春風のように、爽やかなのだ。それは、逆説的であるが、適度な仕事、適度な運動、適度な変化、適度な問題などが、あるからかもしれない。前のブログでも書いたが、適度ということを、さざ波と表現したが、大波では困る、老いの身では乗り切れないが、適度ならば、ビーチで海水に素足を入れて歩くような心地よさがある。コロナとの戦いは、医者も為政者にも是非努力してもらいたいが、これは世界中の人々の願いだが、高齢者は、反面において、生物多様性のように、コロナ菌と共生する気持ちも持っている。こんなことを言うと、関係者に叱られるかもしれない。お許しいただきたい。