探し物

昨日は月曜日で週の始めだから、午後に定例の事務局会議があったが、午前中は自分の仕事ができる。自分の仕事とは、昨日のブログでも書いたが、今取り掛かっている資料作成である。この仕事と午後の仕事は、使う脳の部位が違うので、切り替えなければならない。教育に関する研究や実践をする時、小学校が最も重視され、中学高校になるにつれて、その重要度が下がっていくのは、総合から教科へ移行するからである。教科とはその背景に親学問があり、学問は各分野に分化され、専門性があり、それは大学や大学院での研究につながる。つまり教科の専門は大学と変わらない、ということは、教科教育の専門性は相対的に低くなる。小学校は教科ではなく、教科横断、教科を統合した内容、つまり総合なので、教育の専門性がそこにある。それは、教科であるが、それをどのように子供が認知するかという、教科と認知の相互作用と言ってもよい。さらに言えば、そこに教師や教材やメディアが関わるので、複雑なシステムになり、背景とする学問を挙げれば、教科の親学問、子供の認知としての認知心理学、教材やメディアに関わる工学や情報技術などがあり、その総合的な内容なので、そこに専門性が出てくる。それは、小学校において最も顕著に表出されるので、教育では主に小学校での比重が大きい。昨日、資料作りをしながら、自分は小学校の実践が見えないことが、長年の引け目になっていて、なんとか乗り切りたいと自問自答して苦しんでいる。たぶん、他人には見えないだろうが、それで、悶々としながら、なにかヒントになる考えや資料はないか、と考えていたら、このような自分に模範解答のような資料が、かつて送られてきたことを思い出した。それで書棚を探して、見つけた。もちろん、その資料で解決するわけではないが、何故こんなことに気が付かないのだろうか、それは、結局、自分が見えないからではないか、と思った。自分の姿は、決して見ることができないと同じように、自分の探しているもの、知りたいこと、探求したいこと、が分かっているようで、分かっていない、自分のことは、見えていない、見えることは難しいのだ、と改めて気が付いた。人は、脳が目をオブラートで包んでいるようで、ほとんどは思っていることは見えていないのではないか。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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