昨日は、久しぶりに栃木県小山市に行った、のは、白鴎大学の役員会があったからである。駅前にあるキャンパス11階の会議室で、昼食を兼ねて、その後に議案を評議した。自分の左右両隣は、オリンピックの体操で著名な加藤澤男先生、フォーク歌手として有名な山本厚太郎先生がおられて、昼食時に雑談と昔の話をした。加藤先生は、教育学部に在籍されて、山本先生は、研究室が隣だった関係で、よく話をしたし、どこかウマが合った。共通しているのは、白鴎大学の学生は、気質が素直で、伸びる学生が多く、どこか昭和の時代を連想させるような学生像だった。自分は、5年間学部長を拝命していたせいか、どの先生とも懇意にさせてもらったが、楽しい思い出ばかりである。先生の研究室は、いつも学生が多く来ていましたね、とか、よく走り廻っていましたね、とか、外から見ると、自分はそのように思われていたらしい。加藤先生は、今でもメダル数の記録は破られていない、ミスターオリンピックとでも呼びたい人物で、山本先生は、気さくな人だから、どうも歳をとってね、走れコータローが歌えるか自信がないよ、と話していたが、役員会のメンバーを見ると、誰も年月を経て、それなりの年恰好になっている。自分もそう見えるのか、と思うが、誰もが教壇に立っていた時、ゼミで議論をしていた時を、思い出すのだろう、どこか郷愁に浸るような表情をする。会議の内容も、学生数、付属の幼稚園や中学高校に至るまで、学校の話題である。心が昔に戻り、自分も、こうして講義をし、ゼミで議論し、夏と春の勉強合宿をし、教授会を仕切り、本音を言うと、自分は毎月の教授会を仕切るのが楽しみだった、などが走馬灯のように頭をよぎっていった。すべてが楽しい思い出だった、今度生まれ変わっても、学校の教員でいたい、と思いながら、会議の一時を団体役員ではなく大学の人として過ごした。高校や大学は、今でも、片思いを続ける、いとしい人なのである。