昨日は火曜日で、朝9時から夕方6時まで4つのオンライン会議があったので、忙しかった。おまけに、深夜に腹痛で目覚めたので、寝不足もあってどうなるかと思ったが、人のすることは思い過ごしが多く、現実は何事もなくスムーズに進行していった。何も心配することはないのだ。心配とは、ほとんどが自分勝手にそう決めているだけで、他人は何も思っていない、というと語弊はあるが、概してそのようだと、経験的には思う。忙中閑あり、の言葉通り、会議と会議の間に隙間があって、その間に溜まっている仕事や調べものなどをするのがいつものパターンだが、昨日は止めた。寝不足なので、机に向かうと、うとうとする、というか、向かう気持ちが薄れている、まだ正露丸が効いているのか、と思ったり、体を労わらないと、との思いで、1階にある居間の南側に腰かけて、1時間くらいをボーとして過ごした。小さな庭と小さな菜園だが、昨日の陽気は5月並みで、真っ黄色い菜の花が目にまぶしい。そういえば、今は春なのだ、忘れていた。朝刊の句、菜の花の側に止めおく乳母車(入田葉子)があった。昨日は火曜日だが、月曜が休刊だったので、歌壇の掲載があった。こんな陽気だと、直射日光はきついから、日よけをしているだろう、そこから黄色い菜の花を見れば、幼児も気持ちよく春の息吹を感じるだろう、と思ったのか、母親は、しぐさの隅々まで、優しさが隠されている。そして夕方6時を過ぎて、お風呂や楽しい夕餉の時間になる。同じ歌壇に、今日のこと大方終えて草の餅(吉羽あつ美)、の句があった。なるほど、人は同じようなことを感じるようだ。ありふれた日常生活の1コマだが、誰も何かを感じながら生きている。