昨日は、平穏な1日だった、ということは有難い日だったと言うことで、若い頃とは感覚が違っているような気がする。よく小説やテレビなどで見る、仕事や役職を終えた、人生の黄昏を迎えた爺さんが、日向ぼっこをする心境も分かる。そういえば、こんな句があった。この世でもあの世でもない日向ぼこ(小笠原玲子)のように、静かに過ごすのも、いいだろう。とは言いつつも、そうもいかないのが人の世で、オンラインで画面を見ることが多くなったせいか、目が疲れる、肩が凝る、ようになった。目の方は、花粉症でもあるので、目薬と飲み薬が欠かせないし、肩の方は、長い間ずっと凝っている。床屋に置くと、お客さんの肩は硬すぎて手が入らない、と言われるので、整体院に行って、ほぐしてもらうようにしているが、日頃の癖で、時間がもったいないと思って、よほどのことがないと行かない。いつだったか、手帳に予定に入れるようにしてから、定期的に通うようになった、と言っても、1週間に1回である。昨日の夕方に行って揉んでもらったが、実は痛いのだが、声に出すのが恥ずかしく、我慢をしているが、何となく効果がありそうな気がする。このように通うようになったのは、手帳に書くからである。自分の気分次第だったら、たぶん通わない、実際、以前はそうだった。手帳は、重い腰を上げる役をしている。その役を、教育では、AIDとか足場掛け、と言って、重要な概念で、自分一人では何もできないことが前提にある。何かで腰を上げてくれないと、一人では何もできないということは、それほど人は弱い存在で、教員も教材も黒板もパソコンも、その腰を上げる手伝いをしている。学習指導要領では、主体的に学べと言うが、そんなに人は強くない、他人や道具の力でなんとか前に進んでいる、という人間観があってもよい。