もう一人の自分

昨日は月曜日だったので、3つのオンライン会議があって、密度の濃い議論をしたが、いつも仕事の話もいかがか、と思うので、別の話題にしたい。月曜は、新聞の歌壇が掲載される曜日で、昨日のブログで認知症と書いたせいか、次の短歌が目に留まって、切り抜いた。ひとつまたひとつ壊れる夫の脳優しくできぬ我でない我(大館久仁江)。認知症になった夫の介護で、分かっているが、どうしても感情が言うことを効かない自分を振り返っている。以前にブログで紹介したが、母の日の許してほしきことばかり、を思い出す。そういえば、自分の心に住んでいるもう一人の自分を、鬼と称した短歌もあった。介護のことは、もうすっかり過去のことなので、思い出せないし、ほとんどすべて忘れてしまった。いつまでも、過去に引きずられると、人は生きていけない。確かに、そんなこともあった、どんなに大変なことがあっても、脳の古い細胞は分解されて排出されるのだから、心配ないのだ、と思っても、この短歌を詠んだ人は、今の自分を見つめながら、落ち込んでいるのかもしれない。句を詠むことで、落ちこんだ自分を拾い上げようとしているのかもしれない。俳句欄を見ると、春待つや空にあるもの皆動き(会田重太郎)、という明るい句があった。雲も鳥もすべて動き始める春を待つ心境がよく分かる。やがて、4月になれば、コロナも収まって、明るい笑顔が戻ってくるだろう、と誰も期待している。今は、待つ時期なのか、耐える季節なのか、わからないが、心配することはない、根拠や科学的データはないが、これまで生きてきた経験から言えば、楽しい季節が確実にやってくる。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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