光るものが人を動かす

昨日は、午前はオンラインの審査で、午後は久しぶりに都内で対面の会議があって出かけた。午前の審査は、丁々発止の火花が散るようなやり取りがあって、多少の緊張感がある。審査とは、どの世界でも同じだろう、懇親会のような、まあまあ、の世界ではなく、白黒を決定するというミッションがあるから、仕方がない。その火花の中にも、相手の真意を計りながらも、これは凄い、と敬服することがある。それは、研究の途上でも似た感覚がある。これは、いける、とか、これは、きらりと光っている、などの直感である。審査は、根拠がなくては、結果の妥当性が保証されないので、書類をよく吟味しなければならない。お昼にテレビニュースを見たら、ワクチンが日本でも接種されると報道していたが、その治験では、18000人に開発したワクチンを投与し、同じ人数で別の薬を投与して、その後の感染者数を比較した結果、別の薬では平均的な感染者数が出たが、開発ワクチンでは、その数の5%程度の感染者数、つまり95%が感染しなかった、というデータを元に、有効性を報告していたが、確かに科学的な根拠である。前のブログでも書いた、EBPM、根拠に基づく政策立案の典型である。同じようなことは、午後の会議でも議論された。人は、どこかに根拠を求める。昨日は、嬉しいメールが届いた。自分は、ある団体が主催する高校生の研究発表会の審査委員長をさせてもらっていて、優れた研究や作品に対して賞を与えているが、中でも優れた研究には、自分が所属する教育系学会の論文誌に招待することになっている。昨年は、1人の女子高校生が選ばれた。その生徒と担任の先生から、ある大学の推薦文の依頼があった。学校外からの推薦が必要だから、という大学からの条件だった。昨年、その推薦文を書いたが、今年、第1次選考を合格し、第2次選考の面接を受けて、無事合格したという知らせであった。本人や両親や担任の先生の嬉しそうな顔が、目に浮かぶ。私は、推薦文に根拠に基づく科学的な内容と同時に、自分が受けた感銘を素直に書いた。研究には、データにならないが、光るものがないと、心に響かないのだ。その高校生は、純粋に探求した、まっしぐらに進んでいった、難しい課題もあったが、夢中で壁を乗り越えていった、その姿勢が自分には輝いて見えた。審査とは、大人相手でも高校生でも、データと共に、どこか小さな感動が必要なのだ。合格した固有名詞を書くのはどうかと思うが、いいだろう。東京大学である。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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