自分が見えるようになる

昨日は、このブログでも書いているが、オンライン審査があった。審査なので詳細は書けないが、自分にとって勉強になることが多い。と言うか、勉強になることばかりだ。自分も事前に資料を読む、その時間も膨大になるが、読むことは相手の懐を知ることで、それを自分の頭に入れる、それは単なるコピーではない、自分の言葉になるまでに変形するのだが、その変形の仕方は審査する側の認知による。別に審査だけでなく、論文でも雑誌でもテレビでも同じだが、審査になると、その重要度と緊張感が違う。どの程度読みこなしたかが重要だが、膨大な資料を前にすると、なんとか短い時間で処理したい、という気持ちが働いて、時々見落としてしまう。他の審査員の発言を聞くと、そのことがよく分かる。審査員は、本当にこの分野の専門家だ、と感じるのは、知識だけではなく、メタ的な読み方や考え方をするからである。メタ的と言っても、詳細を言わなければ意味不明だが、どういう戦略なのか、どういう目的なのか、どういう方法論なのか、という大枠のことで、その枠組みがずれると、詳細をいくら読んでも、方向性が違ってくるので理解できない。この見方が、他の審査員は、さすがと思うくらい鋭いのだ。なるほど、このような見方なのか、だから、この記述に矛盾があるのか、この記述にその方向性が表れているのか、と気付く。科学的な研究であれば、詳細な記述はデータであり、目的や方向性が研究全体を包括して、データの解釈ができる。もちろん、こんなことは誰でも知っているが、実際になると、なかなか難しく、目的を忘れたり方法だけにこだわったり、目先のことだけに捕らわれることが多い。さらに、申請書が、本当に世の中や教育に役立つのか、という視点である。その視点に、ハッとさせられた。そうだ、研究も含めて自己満足だけのために、予算を使うのならば、世の中が許さない。コロナ禍の中で、永い歴史に幕を閉じて閉店した家、職を失った人、給料が激減した人、在宅勤務でコロナうつ病になった人、など多くの人が苦労している中で、自分だけのことに予算を使うのは、人としての品格が疑われるではないか、と思ってもいいだろう。その視点が、自分には欠けていた。歳をとると、自分が見えるようになる、正確には、自分と他人の違いが分かるようになる、平たく言えば、自分の至らなさと他人の偉さが見えるようになる。昨日は、本当に勉強させてもらった。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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