不足の材料を探さない

昨日は日曜日で、スポーツジムに行く日だが、メインテナンスのため休館だったので、東の航空公園までジョギングをした。春のような陽気で、コロナ禍以前と変わらぬ人出、それも親子連れが多く、コロナ禍の禍の文字を忘れそうな光景だった。模型飛行機を飛ばす大人、サッカーに興じる若者など、誰も今の安らぎを楽しんでいる。それでいいのだ、顔にマスクを着けても、多少の心配事を抱えていたとしても、今を楽しめばよい、庶民は、その楽しむ術を知っている。お風呂上りの夕方の一時は、1階の居間で読書をするのを楽しみにしている。昨日は、ベストセラーでもある、JR上野駅公園口、を読み終えたが、なんとも後味の悪い小説で、主人公のホームレスと天皇を紐づけて、物語を構成しているが、なにか無理がある。1部のインテリには評価されるかもしれないが、庶民には馴染めない。どこか、人を斜めから見ているが、まっすぐに正面から見る方が、自分は好きだし、薄汚れた服を着るより、こざっぱりした洗濯した服の方が、段ボールを住処にするより、雨風を防げる屋根付きの家の方が、冷たい朝食より、湯気のでる味噌汁付きの朝食の方が、当たり前だが、好きである。たぶん、誰も同じで、小さな不幸と小さな幸せを抱えた、さざ波のような生き方が、大多数だろう。ホームレスと天皇は、大きな波の底辺と頂点のような特殊な生き方なので、読んでも、世の中や社会を恨んでどうなるのだ、もっと前を向いたらどうなんだ、と言いたくなる。夜は、NHKの最終回大河ドラマを視聴したが、光秀が馬に乗って駆ける後ろ姿のシーンで終わった。史実と違うかもしれないが、どこか未来に向かっている、まだ生きていた、希望があった、光秀のまっすぐな生き方は、哀れではなかった、不幸ではなかった、という安堵感を余韻として残す。自分は、どんな事態になっても、このブログでも書いているが、ホームレスだけにはなりたくない、平凡で良い、さざ波のような生き方をしたい、と思っている。公園での光景と、読み終えた本の感想と、大河ドラマが重なって、その思いを強くした。今の環境に、感謝するだけである、お風呂に入れる、住む家がある、寝る布団がある、温かい食事ができる、原稿が書ける、オンライン会議がある、審査がある、不足を言う材料を探す必要はないのだ。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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