誰のための研究か

昨日は土曜日なので、私的な用事もあるが、午後にオンラインセミナーに参加した。自分の専門外なのだが勉強したかったので、ウェビナーという参加するだけのセミナーである。コロナ禍になって、オンラインセミナーで気軽に勉強できるチャンスが多くなって、有難い。話を聞く側に立って分かることは、内職をしたくなるような話し手と、引き付けられるような話し手がある、という当たり前のことだ。それは、プロのタレントのような表現のうまい下手ではなく、内容の選択の仕方である。確かに、深い話をしているのだが、自分のうまさ、深さに酔っていて、こちらが聞きたい内容を言ってくれないもどかしさを感じる話し手がいる。結局、何を言いたかったのか、聞き手に何が残ったのか、何が得したのか、挙句には、無駄な時間を過ごしたのではないか、と後悔する場合がある。それに反して、そうそう、それが聞きたかったのだ、そこがどうなっているのか、知りたい、という聞き手の要求を理解している話し手には、拍手を送りたくなる。メモしたくなり、貴重な時間を過ごした、という満足感が残る。昨日は、その2つを感じた。オンラインセミナーと私的な用事の間に、自分の研究でやりたいことがあって、机に向かっているが、ふと思う。この研究は、自己満足だけになっていないか、他の研究者に、これは誰も真似できないだろう、と自慢したいのではないのか、一般の人には分からなくても良い、などと考えていないか、と自問する。実は、そのようなことが研究途上では多いのである。すでに論文になった内容を見ても同じことを感じて、恥ずかしくなる。だから過去は見たくない。誰のための論文か、誰のための研究か、と昨日も考えた。最先端の科学者や、その分野の卓越した研究者ならば、例外もあるだろうが、自分の分野では、すべて他のためである。分かっていながら、研究途上では、それを忘れて、つい難しいことだけ、他人に分からなくても良いと考えている、自分の姿が見えてきた。それは、先のオンラインセミナーで、自分の高説に酔っている話し手を見て、振り返ったからである。赤面の思いである。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。