昨日は審査の仕事をしたり諸々の用事で過ぎたが、コロナ感染数の増加が急速で電車に乗って都心に出かけるのが躊躇される。昨日の朝は時刻に遅れて小学生の見送りができなかったが、思えば学校での出会いは、それはクラスでも部活でも教師でも、大切であり、休校措置はできる限り避けてほしい。昨日、量子ウォークについて書いたが、人も量子と同じで、ある時は優しく人に接し、ある時は腹が立って苛立たしく人に接する。聖人君主というわけにはいかず、子供も、ある時にはいじめる側になり、ある時はいじめられる側になるのではないか、どの可能性も持っている、と考えたほうが自然である。このブログでも書いたが、青春はこわれもの、の歌詞を年末の歌番組で聞いたが、純粋に走っていくと同時に、内面では不安が一杯で、という二面性を持ちながら青春を過ごしている。同じように、上を向いて歩こう、と頑張ろうとか希望を持とうとかのメッセージの裏に、涙がこぼれないように、と内面の寂しさを歌っているので、人は共鳴するのであろう。昨年のNHK朝ドラで、古関裕而が軍歌を作るが、勇壮な歌詞に対して、兵士たちは、明るい長調ではなく、むしろ哀愁ある短調の作曲を好んだと言う。あの人は、こうだ、と決めつけられないのではないか。人間ブルトーザーと言われた田中角栄に森光子がインタビューした様子が、テレビで放映されたことがあるが、こんなにも繊細な心の持ち主だったのか、と思ったことがある。それは、アナウンサーでも政治家でもなく、森光子だったからではないか、と思う。量子力学では、波か粒子か、そのどちらが現れるのか、それは他との相互作用による、と言っている。つまり、人の世界では、出会いである。出会いによって、例えば、ある生徒は、教師の一言で、世界史が大嫌いになったと言い、ある生徒は、教師の一言で、教師を目指そうと決意したと言う。出会いによって、その人の何を引き出すのか、それは、相互作用、つまり人と人との関係で決まる、のではないか。通常は、量子ウォークのようにどちらでもない、物事の本質は決定論ではなく確率である、という物理の法則は、どこか人間の世界にも当てはまるような気がする。