データは誰のもの

昨日も、いろいろなオンライン会議があった。いつも思うが、この世の中は勉強するチャンスに恵まれている。どの会議でも学ぶことは多いのだが、学ぶことだと気付くかどうかが、決め手のような気がする。昨日の会議で出された資料、オンラインなのだが、見栄えのしない、なじみのない図が多かったので、見向きもしなかったが、会議が終わってから、あれは重要なヒントを示唆しているのではないか、と気が付いた。ただ、じっくり読む必要があり、時間がかかりそうなので、今日のどこかで時間を見つけたいと思う。昨日の会議の中で、研究倫理のことが話題になって、諸々の意見が出た。どの大学でも研究倫理規定があるが、まだ教育現場では、それほど意識は高くない、と思うのは、自分のクラスの生徒は自分のもの、という文化があるからではないか、と思う。子供の作文にも作品にも顔写真にも、著作権があり知的財産権があり肖像権もあるが、自分のクラスの子どもというだけで、それが担任の先生の自由になる雰囲気がある。研究倫理の問題は、今後さらに重要になるだろう、と言うのは、デジタル化が急速に進んでいる今日では、顔写真、ドリル、病院でのカルテ、買い物など、すべてデータ化されて記録されるからである。パソコンでサイトにアクセスすれば、そのクリックもデータとして、サーバに記録され、オンラインセミナーで話せば、すべて録画されることもあるだろう。これらのデータをすべて連結すれば、確かにビッグデータになってAIで分析できるようになるが、そこに落とし穴がある。それは、データは誰のもの、という命題である。小学校の授業でも大学の研究でも同じであり、今日では、それらのデータは子どもと関係なく一人歩きしているからである。このことが、先の研究倫理に関連しているのだが、会議中に気付いたので、最後の挨拶で少し触れた。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。