教育は心か論理か

昨日は、終日密だった、というより密度の濃い1日だった。オンライン会議が続いたが、それぞれが重い課題だった。面白い話題もあれば、眉を寄せて考え込む話題もあれば、できれば避けたい話題もあるが、仕事だから、当然である。固有名詞は書かないが、オンライン審査をした。その観点が、実践なのか論文なのかで、意見が分かれて時間がかかった。一昨日のブログとまったく同じである。どうも、人は優れた実践には心を動かされ、優れた論文には論理で納得し、どちらも面白い、と思う。自分も永い間、教育研究に関わってきたが、まだ心の部分と論理の部分の関連が分からない。どうしても、実践だけでは、素晴らしいのだが、背景が見えないので、頭のどこかが納得できないので、どうしてそのようになるのか、という問いが出る。だから、自分の出版では、ハウツーは書けない、それは実際に現場に立つ教師のほうが、どう考えてもプロだからである。プロに対して、素人が説教するようなことは、真逆である。若い保母さんに、お母さんが言ったという。赤ちゃんを産んだことがない人が、どうして分かるのよ、あなたの言っていることは、単なる本の受け売りでしょ、という話を家内から聞いたことがある。同じセリフは、教育研究者と現場の教師に当てはまるだろう、そこで、研究者の方は、学習指導要領などの権威付けられた文献を持ってきて、説得するスタイルが多いような気がするが、それって、教育関係者が話し合って文章化しただけでしょ、と言いたくなる。10年経ったら、また変わるでしょ、とも言いたくなる。実際には、このセリフは、小中学校の先生方はあまり言わないだろう、法的な拘束力があるからだが、そのセリフは、自分の気持ちである。心と論理と両方を合わせもつ、これが今の正直な研究の仕方であり、学習指導要領は、自分には参考文献の1つでしか過ぎない。と書くと、関係者に叱られそうだが。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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