問答法

昨日もいろいろな仕事が詰まって、忙しかったが、なんとかこなせたようだ。いろいろな用事が入ってくると、脳は活性化するようで、能率的に処理できる。どうしてもチェックしておきたい論文があって、英文だったが、かなり時間がかかった割には、どうも納得しにくかった。考えてみると、日本語と英語の違いによって、内容の理解度に相当に差が生じるのかもしれない。当たり前ではないか、と言われそうだが、その当たり前に、これまであまり気が付かなった。言葉は道具や手段だと思っていたので、道具や手段で思考は変わらないと思っていたが、どうもそうではないようだ、と思い始めた。それは、既にビゴツキーも指摘したことだと思うが、しっくりこなかったが、この頃、確かにそうかもしれないと思うようになった。この前、小学校の図工の授業参観に行って、カリキュラムマネージメント、単元のテーマ、デザイン、見方・考え方、の意味に改めて気が付いたが、それまでは、言葉だけ知っていて、本当は分かっていなかった。昨日も、同じことを知った。ソクラテスの問答法と同じかもしれない。この場合は、他人との問答ではなく、自己対話であるが、汝自身を知れとか無知の知とは、その通りである。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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